スリランカのABC

スリランカのことがよくわかる
ブログです。

第2弾 スリランカの歴史〜古代〜

アーユーボワン!


スリランカの歴史、第2弾です。
王都はアヌラーダプラからポロンナルワと
移っていきます。


紀元前から11世紀まで

王都アヌラーダプラの繁栄と衰亡

アヌラーダプラを王都とするシンハラ王国は、貯水池を
利用した灌漑農業の発達と、各地に仏教寺院が建立され、
仏教の一大センターとして栄えました。


中国の仏教僧「法顕(ほうけん)」は、5世紀頃にスリランカ
を訪れており、その書物「仏国記」には、見事な仏塔や寺院に
驚嘆し
、スリランカのことを「師子国(シンハラ)」と記しています。


5世紀、当時の王の息子「カッサパ1世」はクーデターを
起こし、父である王を殺害し、王権を奪取します。


しかし、異母弟であるモッガラーナに王位を狙われることを恐れ、
首都をアヌラーダプラからシーギリヤへ遷都します。


しかし、モッガラーナは兄に戦闘をしかけ、495年にカッサパ1世の
自害によってシーギリヤは陥落。


再び、アヌラーダプラへ遷都します。


シーギリヤは、カッサパ1世の即位期間18年間(477年〜495年)の
間に栄え、特に岩の上に建立した王宮「シーギリヤ・ロック」は
現在、世界遺産(1982年登録)としてスリランカ観光の目玉となっています。



アヌラーダプラは栄える一方で、断続的に南インドのタミル諸国、
パーンディヤ朝やチョーラ朝からの侵攻を受けていました。


11世紀、ついにチョーラ朝の侵入により、王都アヌラーダプラを
放棄します。


11世紀から13世紀

王都ポロンナルワ

南インドのタミル国、チョーラ朝の侵攻を受け、シンハラ国は
1017年、ポロンナルワに王都を移します。


ポロンナルワはアヌラーダプラから南東の位置にあります。


遷都したものの、チョーラ王朝はポロンナルワに進軍し、当時の
シンハラ王を拘束し、代わりにタミル人の総督を置き、ポロンナルワを
支配しました。


スリランカ全土にタミル人の影響力が強まろうとする中、
シンハラ王のウィジャヤバーフ1世が軍事行動により、1070年、
チョーラ王朝を追放し、ポロンナルワを奪還します。


ウィジャヤバーフ1世は国の立て直し、特に廃れてしまった仏教の
普及につとめていきます。


1153年、ウィジャヤバーフ1世の孫であるパラークラマバーフ1世
が王位につきます。


ラークラマバーフ1世は灌漑用貯水池や多くの建造物を建設し、
ポロンナルワを仏教都市として開発していきました。


ラークラマバーフ1世の功績は目覚しく、米の生産は増大し、
寺数が多くなるにつれ、聖域の性格を濃くし、タイやビルマ(ミャンマー)
から仏教僧が多数訪れるように
なりました。


その後、1187年にニッサンカ・マーラ王が王位につきます。
彼はカリンガ王室出身のタミル人です。


王位についたのはわずか9年でしたが、国内各地に王を賞賛する言葉や
小国との関係を示す石碑文を作り、人徳者として今でも称えられています。


しかし、彼の死後は王朝は勢力を失い、タミル諸国の侵攻を受け、
1232年、シンハラ国はDambadeniya(ダンバデニヤ)へ首都を移し、
1255年、ポロンナルワを放棄しました。


その後、ポロンナルワは衰え、廃墟となりジャングルの中に埋もれて
しまいましたが、1900年以降の遺跡発掘により、再び注目を浴びるよう
になります。



※シーギリヤ、ポロンナルワは別記事でレポートします。