スリランカのABC

スリランカのことがよくわかる
ブログです。

第3弾 スリランカの歴史〜中世14世紀まで〜

アーユーボワン!


スリランカの歴史、第3弾です。
スリランカに限らず観光地は、歴史的な意義を知って周ると
感慨深いものがあります。
特にスリランカは決して広くない国土に、2,500年以上もの
歴史がギュッと凝縮されており、足を踏み入れるだけで
何か他とは違う空気を感じることができます。


13世紀から15世紀

揺れるシンハラ国

ポロンナルワを放棄した後、シンハラ国は頻繁に遷都を繰り返す
ことになります。


なぜなら、タミルの侵略が激しかったからです。
同時にマレイ(インドネシア方面の民族)からも侵略を受けています。


【遷都の変遷】
1232年:ダンバデニヤ

1303年:ヤーパフワ

1319年:クルネーガラ

1347年:ガンポラ

1415年:コッテ


約150年の間に、5回遷都をしており、最終的に
1469年、キャンディにたどり着きます。



中国、明の属国となる

タミルの侵攻により、不安定なシンハラ国に明国からの
使者がやってきます。


明は朝貢外交(※)を進め、周辺国へ鄭和(ていわ)
を派遣していました。
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朝貢とは、中国独特の貿易システムです。
中国以外の国が皇帝へ貢物を贈ります。
贈り物を受け取った皇帝は、その見返りとして貢物以上に価値あるものを
その国に贈るというシステムです。


献上した国は貢物以上の利益を得ることができ、皇帝は他国から貢物を
献上されたということで権威を周囲に示すことができます。
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1410年に鄭和がスリランカに来島しますが、シンハラ国はその使節団を
取り囲み、鄭和の船に積んだ財宝を奪おうとします。
鄭和は反撃し、王家一族を捕虜として中国へ連れて行きます。


中国はスリランカで最も忠義ある者を王にすることを条件に、捕虜としていた
王家をシンハラ国へ引き渡します。


その時、王に選ばれたのがパラークラマ・バーフ六世です。
彼は1415年、王都をコッテに移します。


そして以後約30年間、明の属国として朝貢を続けることになります。


こぼれ話


明は朝貢外交を積極的に推し進め、鄭和の使節団はアジアだけでなく
アラビア半島、アフリカまで訪れています。


鄭和の使節団ルート




第2弾 スリランカの歴史〜古代〜

アーユーボワン!


スリランカの歴史、第2弾です。
王都はアヌラーダプラからポロンナルワと
移っていきます。


紀元前から11世紀まで

王都アヌラーダプラの繁栄と衰亡

アヌラーダプラを王都とするシンハラ王国は、貯水池を
利用した灌漑農業の発達と、各地に仏教寺院が建立され、
仏教の一大センターとして栄えました。


中国の仏教僧「法顕(ほうけん)」は、5世紀頃にスリランカ
を訪れており、その書物「仏国記」には、見事な仏塔や寺院に
驚嘆し
、スリランカのことを「師子国(シンハラ)」と記しています。


5世紀、当時の王の息子「カッサパ1世」はクーデターを
起こし、父である王を殺害し、王権を奪取します。


しかし、異母弟であるモッガラーナに王位を狙われることを恐れ、
首都をアヌラーダプラからシーギリヤへ遷都します。


しかし、モッガラーナは兄に戦闘をしかけ、495年にカッサパ1世の
自害によってシーギリヤは陥落。


再び、アヌラーダプラへ遷都します。


シーギリヤは、カッサパ1世の即位期間18年間(477年〜495年)の
間に栄え、特に岩の上に建立した王宮「シーギリヤ・ロック」は
現在、世界遺産(1982年登録)としてスリランカ観光の目玉となっています。



アヌラーダプラは栄える一方で、断続的に南インドのタミル諸国、
パーンディヤ朝やチョーラ朝からの侵攻を受けていました。


11世紀、ついにチョーラ朝の侵入により、王都アヌラーダプラを
放棄します。


11世紀から13世紀

王都ポロンナルワ

南インドのタミル国、チョーラ朝の侵攻を受け、シンハラ国は
1017年、ポロンナルワに王都を移します。


ポロンナルワはアヌラーダプラから南東の位置にあります。


遷都したものの、チョーラ王朝はポロンナルワに進軍し、当時の
シンハラ王を拘束し、代わりにタミル人の総督を置き、ポロンナルワを
支配しました。


スリランカ全土にタミル人の影響力が強まろうとする中、
シンハラ王のウィジャヤバーフ1世が軍事行動により、1070年、
チョーラ王朝を追放し、ポロンナルワを奪還します。


ウィジャヤバーフ1世は国の立て直し、特に廃れてしまった仏教の
普及につとめていきます。


1153年、ウィジャヤバーフ1世の孫であるパラークラマバーフ1世
が王位につきます。


ラークラマバーフ1世は灌漑用貯水池や多くの建造物を建設し、
ポロンナルワを仏教都市として開発していきました。


ラークラマバーフ1世の功績は目覚しく、米の生産は増大し、
寺数が多くなるにつれ、聖域の性格を濃くし、タイやビルマ(ミャンマー)
から仏教僧が多数訪れるように
なりました。


その後、1187年にニッサンカ・マーラ王が王位につきます。
彼はカリンガ王室出身のタミル人です。


王位についたのはわずか9年でしたが、国内各地に王を賞賛する言葉や
小国との関係を示す石碑文を作り、人徳者として今でも称えられています。


しかし、彼の死後は王朝は勢力を失い、タミル諸国の侵攻を受け、
1232年、シンハラ国はDambadeniya(ダンバデニヤ)へ首都を移し、
1255年、ポロンナルワを放棄しました。


その後、ポロンナルワは衰え、廃墟となりジャングルの中に埋もれて
しまいましたが、1900年以降の遺跡発掘により、再び注目を浴びるよう
になります。



※シーギリヤ、ポロンナルワは別記事でレポートします。







第1弾 スリランカの歴史〜紀元前〜

アーユーボワン!


今回はスリランカの歴史について解説します。
スリランカは実に2,500年もの歴史がある国です。
島国という特性から、他国の侵入におびやかされながら独自の
文化・伝統を形成しています。


紀元前5世紀

シンハラ王国が誕生

紀元前5世紀にシンハラ王国が誕生したと言われています。


王都は「アヌラーダプラ」に置かれました。



王国誕生の起源は諸説があるのですが、シンハラ人の中で信じられているのが
マハーワンサ」と呼ばれる書物の神話です。


それによると、


「はるか昔、北インドでオスライオンとベンガル王女との間に
双子の兄弟が生まれました。
成長した息子はある日ライオンを殺してしまいます。
その後、息子は妹と結婚し、ラーラ王国を建設します。
妹との間に生まれた長子ウィジャヤは、国中を荒らし回る
悪者だったため、国から追放されてしまいます。
追放されたウィジャヤ達が船でたどり着いたのが、スリランカ。
彼らは先住民を制服し、シンハラ王国を建設します。
この一族は"ライオンを殺した者(シンハラ)"」と呼ばれました。」


この神話から、シンハラ人は北インドをルーツとしており、スリランカに
最初の国を作った民族である、と信じられています。


しかし、学問的には全く根拠の無い話であり、近年の歴史研究によれば
19世紀に至るまで南インドからの移住者が圧倒的に多かったことが
分かっています。


シンハラ人の次に多いタミル人は南インドから移住してきた民族です。


マジョリティーのシンハラ人としては、マイノリティーのタミル人と
出自が同じということは認めたくありません。


このシンハラ人の出自が北インドなのか、南インドなのかという議論は
この後、復興するシンハラナショナリズムの誕生につながります。


紀元前3世紀

スリランカに仏教が伝来

インドのアショーカ王の息子「マヒンダ」からスリランカに
上座部仏教が伝わります。


シンハラの王族は仏教を信仰し、シンハラの王はマヒンダ長老のために
アヌラーダプラにマハーヴィハーラ(大寺)を建立したとされています。


それ以来アヌラーダプラはスリランカの仏教の中心地として栄えました


また仏教を信奉するシンハラ人によって作られた、大規模な灌漑施設による
豊かな米生産も、アヌラーダプラの繁栄を支えました。


ここから国家と仏教は密接に結びつき、スリランカ仏教は国家保護の元で
発展していくことになります。

アヌラーダプラには多くの遺跡が残っています。



※アヌラーダプラについては他で観光記事として紹介します。


こぼれ話


仏教をスリランカに伝えたマヒンダ長老の名前は、スリランカ人は
誰もが知っています。


訪問したある家族では、2歳の娘さんに


「Why is Poson important?(なぜポソンは大切なの?)」
(※ポソン:仏教伝来をお祝いする日)


と聞くと


「Mahindu thero brought Buddism to Sri Lanka.
マヒンダ長老がスリランカに仏教を持ってきた。)」


と答えていました。


こうして、小さい頃から仏教について教育しているのですね。


壁に貼り付けてあった質問集。